教えのやさしい解説

大白法 547号
 
転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)
 「転重軽受」は「重きを転じて軽く受く」と読みます。
 転重軽受は妙法受持の大功徳
 「転重軽受」は『涅槃経(ねはんぎょう)』の
 「有智(うち)の人は智慧の力を以て能く地獄極重の業をして現世に軽く受けしめ、愚痴の人は現世に軽業を地獄に重く受く」
と説かれた法門です。
 この経文の意を受けて日蓮大聖人は『転重軽受法門』に、
 「涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業(せんごう)の重き今生(こんじょう)につきずして、未来に地獄の苦を受くべきが、今生にかゝる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっときへて、死に候へば人・天・三乗・一乗の益をうる事の候」(御書 四八〇n)
と、前世からの重い悪業が今世(こんぜ)において尽きず、さらに未来世に地獄の苦しみを受けるべきところが、正法を固く受持信行する功徳によって、今世は大難に値うけれども、地獄の罪業を転じて軽く受け尽くして消滅させ、来世(らいせ)には人・天・声間・緑覚・菩薩・仏に成ることができると説かれています。
 すなわち「転重軽受」とは、今世に正法を信じる功徳によって、過去世の罪業・謗法によって受くべき重苦を小苦へと軽く転じて、謗法罪障を消滅する妙法の大功徳をいうのです。
 竜の口の法難の直後、当時の弟子檀那らは、ある者は所領(しょりょう)を失い、ある者は主家(しゅけ)を追われ、扶持(給与)を奪われるなどの迫害を受けていました。このような中、法華経に「現世安穏」と説かれるのに、何故(なぜ)大聖人や我々が法難に値うのか、何故迫害を受けなければならないのか、という疑問を抱く者が現れました。こうした者たちの疑念を解消させ、確信をもって仏道修行に精進していくよう示されたのが、先の『転重軽受法門』です。

 御本仏大聖人の折伏による転重軽受
 『開目抄』に、
 「心地観経(しんちかんぎょう)に云はく『過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ』等云云」(同 五七一n)
とあるように、三世の生命を説き明かす仏法では、すべての事柄(ことがら)は一切、業による原因と結果の法則に則(のっと)るとします。善因善果、悪因悪果の業報因果律こそ宇宙法界の道理と説くのです。
 つまり、過去世の身口意(しんくい)にわたる貪瞋癡(とんじんち)の業因によって現世の業果があり、そしてまた現世の身口意にわたる貪瞋癡の業困によって未来世の業果がある、という三世両重の因果を説いています。
 大聖人は『佐渡御書』に、
 「日蓮も過去の種子已(すで)に謗法の者(中略)般泥恒経に云はく『善男子過去に無量の諸罪・種々の悪業を作らんに、是の諸の罪報或は軽易せられ、或は形状醜陋(けいじょうしゅうる)にして、衣服足らず、飲食麁疎(そそ)にして、財を求めて利あらず、貧賤の家及び邪見の家に生まれ、或は王難に遭ふ』等云云(中略)此の八種は尽未来際(じんみらいさい)が間一つづつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚(あつ)まり起こせるなり」(同 五八一n)
と、法華経の行者でありながら今世に種々の難を受けるのは、御自身が過去世に正法正師を謗じたことによる報いである、と仰せられています。そして未来永劫にわたって一つずつその報いを受けて消滅していかなければならないところを、護法の功徳、妙法弘通の功徳によって今世にまとめて軽く受け、罪障を消滅しているのである、と仰せられています。
 ここでは、示同凡夫(じどうぼんぶ)のお姿で出現された日蓮大聖人の自らの過去世の罪報と「転重軽受」の功徳を説くことで、門下一同の安心と不退転の決意を勧進されています。そして、そうした功徳が「法華経の敵を責むる」という折伏によって現れることを説いて、今後も折伏弘教に励むよう御指南されているのです。

 転重軽受の功徳を確信して折伏に精進せよ
 『女人成仏抄』に、
 「一切衆生、法性真如の都を迷ひ出でて妄想顛倒(てんどう)の里に入りしより已来、身口意の三業になすところ、善根は少なく悪業は多し(中略)始め終はりもなく、死し生ずる悪業深重の衆生なり」(同 三四四n)
とあるように、私たち末法の衆生は、悪業深重の衆生(悪業には殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡の十悪がある)ですが、あらゆる謗法を捨て、大聖人の正法を信受し、大聖人の御修行のごとく折伏を行ずるならば、これまでの迷いと苦悩の生命は幸福境界へと向かって転換向上(てんかんこうじょう)し、物心両面にわたって安穏と安心が得られ、やがては必ず即身成仏の大功徳を享受(きょうじゅ)することができるのです。
 その間、過去世の罪業が様々な形で心身を悩まし、ときにはとてつもない大難・苦悩を受けなければならないこともあるでしょう。しかし、それらは妙法受持によって堕地獄の重罪を今生に小苦として転ずる「転重軽受」の功徳なのですから、私たちはそうした諸難を、むしろ変毒為薬(へんどくいやく)していくべき強い信心をもって、さらに仏道に精進することが大切です。
 『開目抄』に、
 「生死を離るゝ時は、必ずこの重罪をけしはてゝ出離すべし」(同 五七三n)
とあります。
 信心が深まれば深まるほど次第に過去世の悪業が現れるのですから、この重罪を正しい信心修行によって消滅しなければ、真の成仏はあり得ません。
 末法の御本仏として大慈大悲をもって一切の大難を忍ばれた大聖人の弟子檀那として、私たちは、いかなる苦難も乗り越えていく強い覚悟と、御本仏大聖人の三世常住の御利益によって、真の安心と幸福が存することを確信すべきです。